宮城の庭園

一般社団法人宮城県造園建設業協会

良覚院庭園

江戸時代末期 (改修)/池泉廻遊式/仙台市
平安時代〔延暦元年(782)〜寿永3年(1184)〕の初め天台・真言の二宗の密教と我国固有の山岳信仰が結びついて修験道という宗教が起った。その行者を験者または客僧とも山伏ともいい、高き霊山に参龍修行した。平安時代末期頃は、当山派と本山派に分かれて栄え、さらに諸国を自由に巡行する特権を持っていたので軍事にも、政治にも関与したが、平時は祈祷に従事した。仙台藩の山伏は現在の良覚院丁公園内にあった良覚院が総触頭で、仙台市の旧町名に良覚院丁を初め、教楽院丁、大行院丁、覚性院丁、金剛院丁、花京院通り、南光院丁という町名が残っているのは、その町にあった山伏道場の名に因んでいる。修験道の開祖は役小角で役行者といい、奈良時代〔天武天皇元年(673)〜天應元年(781)〕の頃、大和葛城山で苦行、霊験を得たという。後に神変大菩 薩の勅号を賜り、人々に深く信仰された。役行者の石像は前鬼、後鬼を従え、もと良覚院境内に守置されていたが、現在は公園西隣の蛎崎神社境内に祀られている。良覚院は京都聖護院(天台修験)の末寺で良覚日林が開祖である。日林は鎌倉時代の文治五年(1189)に伊達家の始祖伊達朝宗に従って常陸国中村(茨城) から伊達郡(福島)に移って以来代々伊達家の祈祷をつかさどってきた。日林から第十七世栄真の時、政宗が米沢在城の時から従事し、政宗が岩出山から仙台に 居城を移した慶長七年(1602)現在の良覚院丁に移り、栄真を中興開山として、慈雲山祈泉坊良覚院と号した。以来良覚院は藩内修験の元締めとして、仙台領内四分の三を霞下とし、約七百院を支配し、寺領二百石と一門格の待遇を与えられ、代々伊達家の信頼が厚く、権 威もまた甚だしかったことでも知られる。明治五年(1872)太政官布達によって修験道は廃止され、山伏は天台、真言両派に分属し、良覚院は廃寺となった。
現在遺存している庭園は良覚院の隆盛の時期に造られたものと思われるが、庭園についての資料に欠ける。江戸末期嘉永二年(1849)庭園は新たに手が加えられたと伝えられるが、明治五年廃寺となってから庭園はさびれ、明治二十一年(1888)から五年がかりで全面的に改修された。庭園は往時の三分の一が残されていて、石燈籠、樹林などはそのまま残っており、庭全体は往時の庭景をとどめている。、また昭和三十年に市の所有となり、さらに補修が加えられ、現在は茶亭緑水庵として一般に公開されている。
庭園は池泉を中心に変化に富んだ池汀をもち、護岸石組も実用面で池の造形が永く保たれている。庭園北東隅に湧水を利用した井泉石組、ここから水路を経て池泉に流れ込む、南部には表徴的に表現された枯滝石組、三尊石組が配され、池中には沢渡石を配し 石橋が架けられている。茶亭(緑水庵)前池汀は、小規模な石浜表現として平天石を配し、園路は飛石、敷石、景物として風致を整える石灯籠は、基本型、変化 型、蘭溪型(竿が蕨手)雪見型、自然石型など多種を配し、園内には580余木の樹木が茂り、アカマツ、オオゴンヒバ、モミジ、カシなどの古木が池泉を覆 い、特にアカマツの大木がとりわけ目を引く廻遊式庭園である。
 

見龍寺庭園

江戸時代初期 (追築)/池泉観賞式/涌谷町
見龍寺は臨済宗妙心寺派に属する禅寺で、開山は鎌倉建長寺第二世西溪和尚である。戦国の争乱により頽廃していたが桃山時代の天正十九年(1591)亘理重宗が涌谷城に入り、領主となってから再興し、京都妙心寺の梁岩和尚を招請して中興開山し圓同寺と称した。江戸時代初期寛文十一年(1671)涌谷館主第四代伊達安芸宗重が忠死し、その法号に因んで、寺号を見龍寺と改めた。この時、境内が整備され、方丈書院に面する奥庭が作庭されたといわれる。江戸時代中期の明和三年(1766)に失火により全焼し、その後本堂・書院・庫裡などの伽藍が再建され、庭園はそのまま残されたと伝えられるが資料に欠ける。現存する庭園は、山畔に沿った小規模の池泉と、近くに三尊石組、立石、横石、伏石を配し、芝敷の隅に景として、創作型雪見燈籠(脚三本)を配し、あたりは小刈込をあしらった程度の簡素な構成をもつ庭園である。池泉北の山畔部は斜面を利用した築山表現とし、小ぶりの石組を若干配し、山頂部に層塔型石燈籠(火袋と火口がある三重塔)を配し、全体を小刈込年、背景は高木と竹林である。後世の改変を受けていて、その旧態は不明である。
また、庭園の東南隅に湧水がありそれから西へツツジ類の小刈込に沿った水路石組が存する。書院、庫裡は後世の改変を受けているらしく、庭園と建物の位置関 係も不明であるが、江戸時代中期以降の自然主義的な傾向が旧態として残され、風趣が感じられる庭園である。
 

旧有備館庭園

江戸時代中期 (修理)/池泉廻遊式/大崎市
旧有備館は、伊達一門岩出山伊達家二代宗敏が江戸時代初期の寛文三年(1663)岩出山城二の丸が焼失の際造営した仮居館(御蔭館)である。本館新築後の元禄四年(1691)三代敏親がこの仮居館に手を加えて春学館と名付け学問所とし、翌元禄五年(1692)通学便利な下屋敷のあった現在地に移築して有備館と名づけた。以来明治までの一七七年間郷学として親しまれ藩校として全国で最古の建物である。建物は書院風寄棟造りの草葺きで寛文(1661〜1672)面影を今に伝えている。庭園はもともと伊達藩下屋敷として造られ、現状のようになったのは、江戸初期正徳五年(1715)四代村泰のとき仙台藩茶道頭石州清水派三世清水道竿に(別記)によって作庭された。清水道竿はこの庭園を造る前に、町内上野目の須藤家、二の構の阿部家、浦小路の名取家、上川原町の栗原家の四家に、その作庭が遺されている。又、岩出山要 害屋敷内(岩出山高等学校のひょうたん池付近)にモデルとなる池を試作し検討したと伝えられる。庭園の敷地は13,232平方メートル、中央部の約5,200平方メートルを台形の池が占め、池泉には亀島、鶴島、兜島のほか土橋の架かる茶の島(茶呑島)四島を配している。茶の島には松花庵(清水道竿作 昭和五十年復元)と称する茶亭があり、南岸には出島といわれる大小二つの半島が突き出ている。池泉の周囲500メートルの 園路を巡ると有備館の前から池の対岸の眺めは、城山の断崖が見事な借景をなし、一層の美観を添えている。ウラジロガシの古木は作庭時の頃のもので、樹齢300年に近いものである。西南隅に小滝、岩石や燈籠を用いない園内唯一の石組で、断崖の下を流れる内川からの水が流れ込む。滝脇に稲荷社、近く のモミの古木(推定樹齢200年)ヤマザクラの古木(推定樹齢280年)が取り分け目を引く。庭園内(池周辺地区)には360余本の樹木がありモミ、スギ、マツ、サルスベリ、イチイなど推定90〜300年の老大木が水面に大きな樹影を映している。
北東園路脇の竹林、ツバキの列植は景観は勿論のこと実用的用途を考慮して植えられたものである。西苑にはアヤメ園やミヤギノハギ苑など四季を彩る花壇がある。広大な池泉を有する庭園は景趣に富んだ大名庭園と呼ばれる庭園様式でもある。
 

長谷寺庭園

江戸時代初期 (改修)/池泉観賞式/石巻市
この寺は記録によれば、平泉の藤原秀衡の創建になるとされ、その後火災や兵乱によっては廃寺同様になっていたのを、桃山時代の天正年間 (1573〜1592)に梅溪寺(石巻市湊牧山)第八世伝室宗舒和尚が中興開山となって曹洞の禅林として再興し、同和尚をもって一世とした。しかし、言い伝えでは、平安時代の大同三年(808)この時代は伝教大師最澄が天台宗を開き、この寺も天台宗の修験場として創建され、後に曹洞宗に改宗し 盛期には壮大な伽藍を有したといわれている。庭園もその頃の作庭になるものと思われるが明治六年(1873)野火のため全焼し、往時の伽藍及び庭園につい ての資料に欠ける。現在依存している庭園は、古庭園に見られる庭園形式として、焼失前の本堂北側の斜面を利用して石組や植栽を行い、下部に池を掘った上下二段式の作庭形式で建物からの観賞を目的とした庭園である。
斜面は、ツツジ類の小刈込みに覆われているが、高所まで小ぶりな石組が各所にみられ中には倒壊しているもの、埋もれているものもあり、作庭時の石組の全体的構成は定かでない。斜面裾部に沿って細長い小規模の池泉が作られ、東隅の井戸から引水し、西側に排水路をもつ。池中には数個の石が配され、建物側には、石浜風石組、また山畔 には石組で護岸され旧態を残している。その作庭意図を容易にうかがい知る事ができる上下二段式庭園を表現した庭園である。また、堂を囲む境内で見られる樹木は、北限のウラジロガシ、タブノキ、ユヅリハ、サクラ等の古木のほか、境内周囲はスギ植林地となっていて、林床にはヤブ ツバキ、アオキ、ウラジロガシ、シロダモ、チャノキ、イヌツゲなど常緑樹が多く茂り、俗化されない自然が豊かな環境につつまれている。
 

寿徳寺庭園

江戸時代中期 (修理)/観賞式/仙台市
寿徳寺は、伊達政宗の父輝宗が、桃山時代の天正十三年(1585)倒れたとき、その時の住職昌室慧繁和尚が仏事をつとめ政宗の信望を得て政宗が岩出山に移るとこれに従い桃山時代末期の慶長六年(1601)政宗開府に当たり、仙台に地を賜わり移ってきた。この時、輝宗を開基とし、松音寺第八世喜州詮應和尚を勧請して開山したことから、昌室和尚は二世となった。松音寺(若林新寺四丁目)末寺である。第四世金鳳林石和尚のとき、火災により堂宇を全焼し、第五世中興別山禅可和尚が再建に当り、現在の地に移転したと伝えられる。その後明治十八年(1885)と昭和二十六年(1951)と火災に罹ってそのほとんどが全焼し、僅か山門、経蔵、庭園を残すのみとなった。現在の本堂、書院、庫裡等は、昭和五十九年以降に再建されたものである。寺の山門は薬医門(本柱の後方に控柱を建て、切妻屋根をかけた門)の形成で、大きい円形の門が珍しい。庭園は、江戸時代中期、寿徳寺第五世中興別山禅可和尚享保五年(1720没)が建物の再建復興当時に作庭されたと伝えられるが資料に欠ける。現在の庭園は、書院の東南に位置し、池泉を中心とする観賞式庭園である。池泉の護岸石組等は後世の改修を受けているが、庭園の全体的役割は、旧態を残しているようである。特に庭園東隅には景致的石組とした滝石組、流水石組には作庭当時の姿が偲ばれ、池には軽快な反りを持つ切石橋を架け、立石、燈籠を配し、サツキ類を小刈込 で景をとる手法をとるなど洗練された構成を有し、庭園周囲はアカマツ、コウヤマキ、ケヤキ、シラカシ、カエデ等高木を背景とした自然的環境が保たれ均整の とれた庭景をなす庭園である。
 

龍洞院庭園

江戸時代末期/観賞式/石巻市
この寺は曹洞宗・梅渓寺(石巻市湊牧山)第四世大同文誉(仏照禅師)が室町時代大永二年(1522)に開山した梅渓寺(石巻市湊牧山)の末寺である。江戸時代初期正徳年間(1711〜1715)に一度焼失し、第十五世東方惠日によって、江戸末期文化四年(1807)に中興され、庭園もその時の作庭と伝えられる。寺には門外不出と伝えられる作庭秘伝書(文久元年1861)が保存されている。周辺は丘陵に囲まれ、作庭はその斜面及び裾部に伽藍を取り囲むように作庭されている。庫裡北側には丘陵斜面に石組と植栽を配し、背景とした小規模の池泉がある。池泉には護岸石組、軽快な反りを持った切石橋と橋石組も特色があり、池中には中島と数個の石が配されて自然風景的な作庭がなされている。この池泉から丘陵裾部に沿って長い水路石組が設けられ、その各所に石組、燈籠、等が配されている。斜面にはツツジ類の小刈込が配されて、旧態を良く残している。
地形状の立地をうまく利用して変化に富んだ構成をもつ観賞式庭園である。
 

清水寺庭園

江戸時代中期 (改修)/池泉廻遊式/栗原市
清水寺は平安時代、大同二年(807)征夷大将軍として奥州討伐に向かった坂上田村麻呂が当地に駐屯し、一夜霊夢を感じて御堂を建立し、将軍の守り本尊と して兜に埋めてあった閻浮檀金と言われる金銅仏(5.5センチ)の聖観世音像を観請し開山したと伝えられる名刹霊場である。それより鎌倉時代、貞応二年 (1223)三迫の森館城主平弥兵衛師門とその夫人(千寿の前)は、観世音信仰が厚く、多くの寺領を寄進して、京都の清水観音を模した壮麗な堂宇を建立し た。境内は建築の美を極め、七堂伽藍、庫裡、鐘楼など十二宇を有し、築山、泉地の作庭をつくり、一大美観を呈し、隆盛を極めたといわれる。室町時代中期、寛正六年(1465)春、野火による山火事のため建物全部を焼失した。その後数回の野火によって廃絶したが、真言宗・智山派・総本山・智積院・第五世安智和尚によって再興され、安智和尚をもって中興開基としている。現在地はその当時の境内から移っているが、現在の本堂は、江戸時代末期安政四年(1857)第二十八世泰教和尚によって再建されたもので、幕末までは仙台 藩の庇護を受けてきたが、古来より修行寺あるいは祈祷寺としての役割をはたしてきたので、他の寺院のように一般の菩提寺という意味が薄く檀家のない寺とし て廃寺同然となりながら、明治二十四年、第二十九世教道和尚によって再興され、現在は第三十一世竜牙和尚が寺の維持に努めている。庭園が作られたという言い伝えと、詳しい由来は不明である。庭園のあったと言われている池泉は今に残り、中島を配した池を中心とする林泉庭園である。作庭 時代の往時を偲ぶ様子が殆どないが、たたずまいは老松の深い木立に囲まれた山の緑を背景として、裏手の山沿いに沢を引き滝を経て、水路から池に水を入れら れていたが現在は沢が土砂で埋まり枯滝となっている。作庭当時の全体的な庭景は現在の庭園からは想定できないが、池に残る地割やその池汀のゆるやかな曲線 からは、作為的な所がなく付近一帯は景趣観賞によく、古さを感じる落着いた風光明媚の庭園として、町の指定を受けている。
 

煙雲館庭園

江戸時代初期/池泉廻遊式/気仙沼市
仙台藩御一家筆頭で家禄一千石を領した鮎貝氏歴代の旧居館を煙雲館といい、地元では御居館、または御館とも呼ばれている。煙雲館の名称は、鮎貝氏の遠祖、京都にありし頃からのものである。庭園は江戸時代初期、寛文年間(1661〜1672)仙台藩茶道頭、石州流二代目『清水動閑』(別記)の作庭と言われる回遊式庭園である。
庭園はかつては広大な面積(1000坪)であったが、現在の広さは1.650平方メートルに縮小された時のものである。この庭園の特質は、自然丘陵の北から西に連なる斜面を庭に取り入れ、中段の山裾に池泉をつくり、東南が開けた丘になっている。中島は築山として盛り上げられ中腹に据えられた縦長のするどい立石は力強く、全体を引締めている。また、庭園の立体的地割や各所に配された景致的石組(護岸石組、築山石組、石橋)や燈籠は全体的構成を乱すことなく、その間に小刈込みを配して景をとる手法が用いられ、全体が幽すい、閑雅で樹木が多く四季の変化に富んだ庭景を作り出している。この庭園の下段東南は、眼下に広がる海景も取り入れ、庭の美しさと共に、目を転ずれば気仙沼湾、遠く霞む金華山まで眺望される借景の壮大さを添えている。二世清水動閑(慶長19年〜元禄4年・1614〜1691)名は紹之、伝習庵と号した。動閑は伊達政宗の茶道頭となった清水道閑の外孫であり、祖父の指導 で茶乃湯に才能を見せ、祖父の跡を継承して、藩の茶道頭となった。清水道閑は、古田織部の門下で、政宗の茶乃湯外交に大きく寄与したが、清水道閑の時代に なり、幕府の茶乃湯が石州流に転換したので、清水道閑は、片桐石州に入門し、長年の修行の末伝授を受けた。仙台藩の茶道は、一世清水道閑の織部流から、石州流となり『石州流清水派』という茶乃湯が確立された。
 

亘理氏庭園

江戸時代中期 (修理)/露地 (茶庭)/登米市
佐沼城跡(鹿ヶ城)の西隣に位置するところ旧亘理郡(古鹿山房)の庭園(霞地)がある。築城は、鎌倉時代初め文治元年(1185)頃平泉藤原秀衡の家臣、照井太郎高直によって築かれたと伝えられる。鎮護のため鹿を生き埋めにしたことから『鹿ヶ城』 の呼び名がある。桃山時代天正十九年(1591)葛西大崎領は伊達政宗が新領主となり、佐沼の地には津田景康が配置されたが、江戸時代中期宝暦六年 (1756)七代津田定康の時、藩主重村公の公意に応じなかった故をもって、所領没収となる。代わって宝暦七年(1757)新領主には、高清水から亘理家六代亘理倫篤が城主となった。葛西、大崎、津田、亘理氏の栄枯盛衰を経て、明治維新を迎え、今日に至っている。
現在までの所有者の亘理氏はその後裔である。
庭園は清水道竿(1662〜1737)(別記)の作庭による路地(茶庭)庭との言い伝えがあり、もしそうだとすると津田氏所領時代の作庭と考えられるが、資料に欠ける。
現在は茶室等の一部の修復はあるものの、作庭当時の旧態を保持しており、庭内の飛石や敷石を主体とした簡素な構成には、仙台藩茶道頭としての作庭者の心境 がうかがわれる。庭園内植栽の中で最も目立つのは、中央に植えられた赤松(推定樹齢350年)がある。見事な樹姿を保ち、主木としての存在的背景を残して いる。
庭園及び建物は亘理家より、平成七年十月寄贈を受け、町により管理されている。
 

箱泉寺庭園

江戸時代中期 (修理)/観賞式/石巻市
この寺は、平安時代天台宗三世慈覚大師円仁(延暦十三年〜貞観六年=794〜864)が貞観年間(859〜876)に開基と伝えられるが年月については不明である。
その後衰えてしまったのを俊光と号する僧が、桃山時代中期、天正三年(1575)に中興の後、真言宗に改められた。所在する北村地区は、殆ど山林地帯で南面するゆるやかな傾斜面を利用した水田などが多いところである。寺名が示すように、所在地は『箱清泉』 ともいわれ、古くから清水の湧く湧泉の豊富な里として知られ、作庭には良好な環境を有している。いつ頃の作庭になるものか、明治初年に火災に遭い、この時寺の記録物一切を焼失したため、作庭時代、工法等は不明であるが、庭園は山の斜面を利用してつくられた林泉庭園で庭の現況は、往時のままといわれている。江戸時代中期、安永五年(1776)の『寺書出』や『封内風土記』に、境内景地の事として、箱泉池。一字岡(本堂西の後丘)心之字池『法華経の一部を書い た(一石一字書)が収められている』阜之字池、(慈覚大師作)柳之池、(岸に柳の木)独鈷水、(泉の噴するところ)万願石、千願石、偃石(臥石)起石、流 石、アマイヌ石、(コマ犬形の石)垂糸栗、(大師の袈裟をかけた枝垂栗)甘蕨、(灰汁抜きなしで食べられる)等石及び樹木についての記述が見られ、現在で もこれらの池及び各石は旧態のまま良好に残されている。現在斜面に植栽されている素材は主として、サツキ、ツツジ類等を丸刈込や角刈込に配して景をとる手法が中心をなっていて、池には土砂が堆積しているが、各所に石組が配され、地形と共に立体的に変化に富んだ構成を持つ庭園である。
 

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